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   2024

0425
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   2018

1013
人の経験したこと、歩んできた道はその人に性格や趣味趣向を

形作っているもっとも大きな要素だ。

そしてその道は失敗の積み重ね。痛みを理解するには痛みを

経験しなければ、理解できない。

辛いことがあって、それを乗り越えて初めて、人に優しさのようなものを

見せることができる。

しかし、叩かれればへこむし、へこめば歪む。

その歪みこそがその人の闇。

そしてそれは誰にも理解されることはない。たとえ似たような経験をした人が

いたとしても、それは同じようで全くの別物

なんとなく同じような気がしているだけ。

誰もが理解されない傷や闇を抱えているが、それは逆にいえば

みんな同じということだ。

もちろん大小はある、大怪我とかすり傷、しかして同じ怪我

自分だけが、つらいというわけではない。この一文が

救いのように感じる人もいれば、叱責されたように感じる人もいるだろう

いま一度、何故そう感じたのか考えてみるのもいいかもしれない。
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   2016

0417
今日は他人の考え方を見て、少し思ったことを書こうと思う

善意は伝染する、そしてそれは大きな力になる。

そうして出来た善意のバケモノは人々をすり潰し、ころし、そして

尚、成長する。そんなバケモノだとしても善意は無くならない

善いことは正しい。

といった物だ。

よく分かる、とは言わない。感じ方は人次第だ。多分

一般的な感性の人に言っても捻くれた考え方だと一蹴されるだけじゃないだろうか

善意の悪意。

善意だからといって何をしてもいいということではない、と

いつも口癖のように言っているが、人が何を望んでいるかを考えて

行動しなければただの自己満足だ。大体みんなこういうのを望んでいるから

あなたもきっと「そうだろう」

非常におぞましい。

上の考え方というのはこういうことを言っている訳じゃないと思うけどね。

例えば

「蜘蛛の巣にかかった蝶が可愛そうだったから助けた」

これは善意と判断されるだろう

「蜘蛛が嫌いだから巣にかかった餌である蝶を逃がした」

これは悪意

さて、このふたつになんの違いがあるのだろうか?

行動理由、ただそれだけ。事実は「蝶を逃がした」それだけ

たとえ蜘蛛が餓死しようが善意で行動したならば人々はその人に

「優しい人」と評価し、本人もきっとなんの後悔も、罪悪感も覚えない

「誰も、蜘蛛のことを考えてはくれない」もしくは

「悪気はなかったから許せ」

この言葉に狂気を感じないだろうか?

善意は時に残酷で、なによりその残酷な行為そのものを正当化する。

ただただ気持ちが悪い。

誰かが助かり、誰かが犠牲になる。

この世の中の根幹。平等なんてのは人間ができる範囲で作ったもの

生まれながらにして食われる側なんてざらにある話。

それを有耶無耶にするのは、どうにも。

伝えたい事を分かりやすく伝えられないのは自分の能力不足とするところだな。

一つ保険をかけておくならば、これが正しいとは言わない。

一つの考え方であり、私の価値観である。

正直に言えば、正しさには興味が無い。

   2016

0324
これから書くことはよく分からないものだし、文章にしても

整理出来てないので不可解なものだということをまず前提に言っておきます

私は時折、希望というものが恐ろしく怖い。特に

降って沸いたような希望が。私にとって希望とは、絶え間ない努力の果てに

それでも得られるかどうかというもの。何の努力もなく、何の予兆もない

そんな希望が怖い。

きっと、それは偽りの光。触れば身を裂き、焼き焦がすもの。

そんな考えが中心にある。手を伸ばしたら裏切られるのだろうなと

かといって、本物の希望でも、いざ前にするとどうしようもないほどの混乱が

襲う。

こんなうまくいくはずがない、たとえ本当だとしても、本物だとしても

苦労無しに手に入れたものが長く続く訳もない。だから振り払っていいよね?

手を引っ込めてもいいよね?って。

幸せを望んでいても、幸せになるのは怖い。

でも逆に上手くいかなくて、傷つくだけの結果の場合はどこかほっとする

このほうが、より、らしい

辛い思いをしている間だけは、何か許されているような気がして

でも、幸せになったら、咎められるような気がして

全てが壊れるような危機感が、そこにある、気がして

よくわかんないんですよ。

不幸を盾に甘えようとは思いません。そんなものは自分の内に秘めて

ふたをしておけばいい

そうすれば、そうしつづければ、いけない、ような

いっそ壊れてしまえば楽だと思うのに

でもそれは逃げているだけとしか思えなくて、だから正常なふりして

痛くても、悲しくても、苦しくても、そうあることが正しいような

ぐるぐるー

そんな感じ。

意味分かりませんね。

私にできることは耐え続けることだけです。だから、他人の救い方も

行動の仕方もよく分かりません。

でも耐え続けることすら出来なくなってしまったら。何も価値がないような

自分という人間の価値が、存在理由が、意味がなくなるような

まぁ、今それがあるとはいえないのですけどね。

なんか吐きたいくらいに気持ち悪いです。

   2016

0307
何故そんなに怒らないの?何故そんなに優しいの?

そんなことをよく言われる。自分はそんなつもりはないし

そんなことはない。ダメージとしては弱った時に効いてくるし

あらゆる行動は根本に自分のためって、そう思ってるから感謝されるのも

首を傾げるような気持ちだ。

この世の中は優しくはない。努力をせずに何かを変えられることはないし

努力しても報われないどころか裏切られることもよくあること

自分の全てを受け入れてくれて、何も求めず優しくしてくれる人なんていないだろうし

ましてや善行や善意すら不審者として見られる時代で。

馬鹿馬鹿しくなる。いい人も正直者も。

そう考えることは変じゃないし普通だ。

だけど、だからって自分がそれをやめるかどうかは別だ。

裏切られて傷ついたって、報われなくたって、気付かれなかったって

そう頑張ることが重要なんだって

そう頑張る人がいることで、この世も捨てたもんじゃないって希望になれたなら

自分も絶望しなくていい。

確かに悪意はある。哀しいほどに

だけど同時に善意もあるって信じたい。どんだけボロボロになったって

そりゃ辛いけど、愚痴だって吐くし泣くことだってあるけど

俺みたいなろくでなしだって出来たならきっとって、そんな希望を何より

自分が見たいから

だからこれは自分のため

誰かのために傷つくのも優しくするのも

誰かの希望になって、自分の希望を見続けるために。

   2016

0305
いきなりだけど、この前目撃した話をしよう。

その日は晴れてたけど夕方から雨、天気予報を見てなければ傘を持って歩かないような

そんな日でした。

自分はちゃんと傘用意してましたけどね。んで仕事帰りに前を歩く三人組がいまして

一人は傘を持ってきてて二人は傘持ってきてない、男二、女一のグループでしてね。

んで、傘持ってきてたっぽい男の子が他の子も入れてあげるわけです。

でも、最終的に傘持ってきてた子が八割くらい傘から出てて濡れてて、それを見て

あぁ、この社会の縮図だなぁって。正直者であればあるほど、いい人であればあるほど

報われないな。って

少しだけ悲しくなりましたね。

んでね?最近っていうほど最近じゃないけど、誰かに甘えたい訳ですよ。

言い訳にしかならないって分かってるけど、そういうのが許される子供の時期って

もうひたすらに親に怒られないように、あらゆる関心を引かないようにってずっと

我慢しているような生き方をしてきたんで今になってすごく誰かに甘えたいなって

思ったりもするんだけど、いい歳したおっさんが、ってね。

結局そういうのは出来ないし、そもそも甘える姿を想像できないくらいの印象しか

与えてないし

まぁ同じくらい甘えられるのも好きだからいいんだけどね


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